自分が成すべきこと。

大震災に直面し、自分がなにをすべきなのか?ということはよく考えた。
JGNはボーイスカウトに入っていて、大学生や高校生の後輩たちは
ボランティアとして現地入りしてた。

「自分もボーイスカウトとしてボランティアに参加すべきじゃないのか?」
ということはよく考えたものです。でも自分はボランティアには参加しなかった。


社会的に自分のなすべきこと、自分しかできないこと。
それをよく考えてボランティアには参加しなかった。
それが「地震データを回収して保全すること」です。
JGNは普段、地震計の設置や保守点検を仕事としてしている
これだけの被害を出した地震である、
もちろんそのデータはきちんと解析されて後世にきちんと残さねばならない。
自分には地震の解析とか後世に残す本とかは作ることはできないが、
地震計のことはよく知っていてデータの回収について
は自分しかわからない古いものもある。それがJGNにしかできないこと。

というか自分は先の「岩手・宮城内陸地震」で苦い経験をしている。
震源地に一番近いであろう地震計のデータが余震によって
上書きされて回収することができなかったのだ。
その地震計は型式が古いものですぐに回収しないと
データが上書きされることを自分は知っていた。
あの年はガソリン税が一時切れたため、役所からの通年通りの発注がなく
役所の対応を待っている間に本震(地震の主振動)が上書きされて削除されてしまった。
おそらく回収できていれば、地震の解析に寄与できたことだろう。
あとから、役所の対応またずに動けばよかったと後悔した。

というわけで
いままで直面したことのない地震に遭遇し、そしてその余震回数に
JGNはじりじりとして3月12日を過ごした。

会社の上長たちは親族が行方不明になって浮き足立ってた
「そんなことしてる場合じゃない」という上長を説き伏せて
3月13日、上司とともに宮城県庁に行った。
(自分だって連絡のとれない親族はいたのだが、
 自分を突き動かしていたのは自分の役割、自分しかできないこと)
もちろん、県庁は蜂の巣をつついたような騒ぎである。
その中でダムの担当部署にいって、申し入れを行った。
まだまだ人の命が危ない時間である「なにをいってるんだ」と
言われたけど後の解析のために、必要なんだと説明をした。

ちなみにまだ、会社には誰も出社はしてきておらず、
他の人たちは食糧確保にせいを出していた。
ちょっと顔を出す人はいたが、会社に出ていたのは自分だけだった。
一緒にいった上長も県庁に申し入れしたあとすぐに帰った。
この周はほとんど誰もこなかった。

3月14日、会社に県庁から連絡がきた。
決行は3月15日。県が手配をする車両と9時に待ち合わせ。
 
さて、困った。会社の車にはガソリンがない。
バスなんてまともに走ってない。
タクシーなんて走ってない。
どうやって会社に8時半まで出社するか?
会社にとまるってことも考えたけど、
これ以上(すでに夫婦で2泊)会社に迷惑をかけてられず
会社が購入した自転車にて帰宅。
自転車なら疲れるけど時間は読める。
少なくともバスが来なくて遅刻ってことはない。

3月15日、宮城県庁前に9時にパソコン2台を持って約束の車を待ちました。
独り県庁の前で待つ間、関西弁の赤十字の人たちが笑顔で記念撮影してるのが印象的でした。
9時半ころに車がきてRV車に県職員4名のっていたところに自分も乗車しました。
5つのダムを回る予定でしたが、3つのダムをまわって暗くなったので作業を終了しました。

3月16日、相変わらず誰も出社してこない。

3月17日、残り2つのダムのデータ回収に再び県庁前で待ち合わせ。
2つのデータは無事に回収できました。

3月11日のデータを無事に保全することができました。
そのデータは国よって解析されているようです。
願わくば回収したデータが、後世のためになることを祈ります。

自分にとって何が正しかったのかはわかりません。
でも、これでよかったのだとこれが自分のやるべきことだったのだと
・・・いまでも思ってます。